2013年4月29日月曜日

グルメは分かってくれない

あまり見ないTVについて以前より、驚いている事が一つ。
それは

『スゲーッ!日本のTV、毎日どこかでグルメ番組やってる!』です。

TVでこれだけ『食』に関しての番組が多いという事は、
必然的に見る人達も多いからで、
日本人はどんだけ食べる事好きなのって話です。

かく言う私も食べ物は勿論、好き。
特にグリルには目がありません。
グリル・・・ほぼ素焼きが一番好きです。
魚・・・網焼き
肉・・・オーブンでグリル

・・・というか自分に問い詰めていくと、私の最高に好きな調理法は
フリントストーンのように出てくるような、骨付き肉を焚き火で焼く感じ!!かもしれないと
最近思いました。

まぁ、このようにグルメについては誰しも少しは語れたりして
『平和だなぁ~』なんて思ったりしつつ・・・
その裏では、TPP問題を始めとする自国の農産業に関してあまりに無頓着な日本の
政治に対して軽く危惧。
先進国の中で食物自給率が四割を切っているのは日本だけです。
言った人は忘れましたが、

『農が滅びる国は国が滅びる』

という言葉があります。
日本ってまさしくそんな感じがして
TVでタレント達がよだれ滴るご馳走を毎日毎日平らげている姿を観るたび
『農が滅びそうな時に・・・』と、ソラ恐ろしくなっています。

2011年3月11日の震災時、都内のコンビニから食べ物と水が一斉に姿を消しました。
こんな事に今後はならないように日本を建て直そう!と考えた人は多いと思います。
でも、どうやって・・・?
その答えは未だに出ていないようです。
というか実はその答えは大分前から出ていないのです。
かつてもあったんです、コンビニとスーパーから食べ物が消えた時が。

自分の経験を遡ると、1995年1月17日、阪神淡路大震災。
その時、私は撮影で京都のホテルの11Fに宿泊していました。
もの凄い揺れに恐怖したのは勿論ですが、
もっと怖かったのは直ちにコンビニで、おにぎり一つから、
パン一切れまであらゆる食べ物が消え去り、
水も残りわずかになった事です。
勿論、交通機関の麻痺がそうさせたのでしょうが
私の頭に浮かんだセンテンスは

『日本、食べ物の輸入STOPしたらこうなるんだ・・・』

この時から何の学習、進歩もないまま2011年の震災で同じ事が繰り返された訳です。

少し話は変わります。
今を遡る事30余年。まだ日本はソフトドリンクと言えば
コーラ、ファンタ、バヤリース、三ツ矢サイダー、不二家ネクター全盛期。
というか、それ位しか種類はなかった。
そんな日本の飲料事情で育った私が初めてNew Yorkのスーパーで
飲物売り場の前に立った瞬間・・・

『俺は、未開の国から来た田舎者だったんだ・・・』

そう思いました。

『エッグ・ノグ?なんだこりゃ?』
『スゲーッ!ガロンで牛乳売ってる!』
『チェリー・スクウィージー?ええっ?さくらんぼなんてどうやって絞るの?』と

その数百種はあるのではないかという品数の多さや量、種類の多様さに驚愕し

『ダメだ、こんな国と戦争したら負ける』すぐにそう感じました。

そして日本はアメリカに追いつけ追い越せで皆さんご存知高度経済成長と共に
本当に食文化、スーパーの充足感はすっかりアメリカ並み。
コンビニに行けば24時間、いつだって水も、炭酸飲料も、コーヒーも、お酒も、
おにぎりも、生活必需品も・・・足ることを知らない経済成長欲求のままに
満たしつづけられてコンビニには物があふれるようになりました。

でも・・・その食物は、震災で周知の通り、交通事情一つで消え失せます。
輸出入のトラブルが出たら、当然コンビニ、スーパーから食物は消え失せます。
自給率がないのに食べ物で溢れているという事はそういう事です。

まさに『農が滅びる国は、国が滅びる』を体現する事になりかねないのです。

はぁ・・・

具体案を出す程私の頭は良くありませんが、
頑張って提案をしてみようと思います。

国の食料自給率の懸念に対する具体案というものは、
非常に大きな枠ですので、なるべくシンプルにしていきたいと思います。
更に、私昔から『食』と関係して色々な事を連想してしまうタチなので、
せっかくだから今日の題材、グルメと自給率というテーマで思考してみたいと思います。

先にも書いた通り、私が好きな食べ物はシンプルなもので、
美味しい素材を只焼いて、塩コショウで頂くのが最高の贅沢だと思っています。
あまり手の込んだ料理や、特性ソース、煮物等には反応しないし、
基本的には日本食でなくてもOK。

そんなグリル派、素材主義の私ですから、一番のグルメ番組は
よく観るドキュメンタリー『アニマル・プランネット』です。
『アニマル・プラネット?それグルメ番組じゃねーじゃん!動物番組じゃん!!』
という声が聞こえてきそうですが、まぁ、こらえて進んで下さい。

アニマル・プラネットでは、肉食動物達が狩りをして、
生肉にシャブリついている姿がたまに放映されます。

『こいつらウマイんだろうなぁ・・・』そう思う訳です。

ご存知の様に、生肉は動物でも魚でも新鮮な物ほど、甘くて美味しくて、
調味量など必要なく、勿論臭みもなく、最高のグルメです。

私から見ると野生の動物達はかなりウマイ物をいつも食べてます。
ただ、狩りをするのは命懸けですが・・・・
狩りに失敗し、怪我を負ったりしたら生命の危機につながります。
死と生が常に隣り合わせなのが野生の世界ですよね。

さて、そろそろTPP問題、食に携わる、日本の政治家や官僚の方々へ
私なりの具体案の提示をさせて頂きます。

世界でもトップクラスの食文化を持つ、日本のウマイ物を維持し、誇り続けたいなら
どうぞTPPなどの交渉の場で、肉食動物の様に命懸けで戦ってくださいね。
それが、ウマイ物を手に入れる為の自然の摂理です。
(TPP参入が決まった以上はという事ですが)

赤坂の料亭で、利権がらみの話し合いを
美味しい刺身で一杯やりながら、地方の弱小農家を泣かせて
自給率を更に引き下げるような結果だけは避けてくださいね。
狩りに出たら戦う。
誰の為に?
民衆の為に。







2013年4月25日木曜日

発信者の良心

今日のニュースで、アメリカのホワイトハウスがサイバーテロか何かにやられて、
オバマ大統領が怪我をしたという情報が流れて、
一時アメリカの株価が動いた的なものがありました。

この類のニュースを見ると
『世の中複雑に見えて実にイージーなんだなぁ』と思います。
誰かがネットでちょっといたずらしただけで(組織ぐるみのサイバーテロの仕業と言えど)
世界の大国アメリカの株価が下がってしまう。
コレ逆もありますよね、うまい具合に情報操作すれば、株価はコントロール可能。
世の中まさに情報戦争、情報を握ってる奴が勝つ時代。

で今日はNETに対して私見を少々

どんどんデジタル化が進み、NETで情報が瞬時に行き交い、
私たちはその利便性を、日々甘受して生活してますが、
ネットというのは言い方を変えれば

『お手軽な公』です。
そして、公では『発信者の良心』がいつも試されます。

NET以外、公の場で、情報を開示したり、何かを発表出来る人は、
そのジャンルの中でキャリアがあり、知識が豊富で、ある意味尊敬される立場に立たないと
公の立場で何かを言う事など許されません。
つまり、公に対して開示する情報の良し悪しを選抜できる規範を持つ人達です。
駆け出しの俳優やスポーツ選手の話など誰も聞きたがらないし
『お前が語るのは10年早い』となります。

しかし、FACEBOOKやTwitterなど個人が自由にNETで発表できる場が広がると
10年早いどころか、前のブログでも書いた様にエキストラの女の子が
女優気取りで書き込みをして結構盛り上がったりしている。
それはそれで、身内同士で盛り上がっている訳だから
『イイんじゃな~い』でしょうが・・・・

例えば、テレビが衰退したのはテレビ局が視聴率重視となり、
『どんな番組を流せば社会的に意義があるか?』と
自らに問わなくなったからです。(あえて断言します。)
良心は " 自分に対しての問いかけ ” ですから、自分に問わなくなったTV制作サイドに
『発信者の良心』など生まれ様もありません。
まぁ、自分に対しての問いかけをしなくなったのはテレビだけに限らず
日本全体がそうといえばそうです。
『金は求めて、意味は求めず』が戦後の日本の基本姿勢ですから。

故に、問いかけナシの人達は公に対しての『良心』など持たず
NET上は自己充足情報の嵐となります。
みんな他人の日常の情報など本当は余り知りたくないというのに
それがFACEBOOKのルールとばかりに大して興味がなくとも
「いいね」「いいね」を繰り返す。

私の友人がFACEBOOKマニアで彼には既に何百人も友達がいるらしく

友人『適当にね、猫の写真でも撮って掲載するでしょう。そうすると、またたく間に
    「いいね、いいね、いいね」って来るの、馬鹿だよ、本当に、暇なんだよみんな』

私『(心の中で)あんたもでしょ・・・・』

この気持ち悪い状況を改善する為には、『お手軽な公』のNETでも
一人ひとりが『良心』を持って情報を発信していくしかありません。
TVの視聴率重視のように、「いいね」重視の物ではない創造的な何か。
そして本当の『いいね』がたくさん増える事を祈りつつ、
私はNETで自己充足ではないこのブログを発表し、
FACEBOOKはSYMBIONを多くの方に知って頂くため、
活動情報を載せる場として活用させてもらう事を続ける次第であります。

どうぞこれからもActor's Rings SYMBIONという演技術の道場で
俳優芸術を磨き、自己鍛錬を楽しんで下さい。
道場は礼節を守り、真摯に演技に向き合う者には誰にでも開かれています。






2013年4月24日水曜日

Class on blog 9 俳優にとっての観察

よく俳優は『人の観察を怠るな』と言われます。
それは何故でしょうか?
今日は、観察の重要性について考察したいと思います。

CLASS ON BLOG 
『俳優にとっての観察とは』

観察が大事!
とにかく見る!
・・・と言っても、只ジロジロ人を見てれば良いかというとそうではありません。
場所、場所において人はどのような行動をしているかを観察し、
その行動の原因となる意識を洞察する事が大事なのです。

私は折にふれて、生徒個人個人に、その人にとって必要な課題を与えます。

先日のクラスで、中途半端にアイドル風な演技をしている人がいました。
その人に出した " 一つの課題 "

『アイドルの様に演じてみて』

このような課題の効果は・・・

1,俳優がアイドル風の演技ではなく、アイドルを観察し、
  その主たる行動や意識を分析し、自分の演技を再構築出来るようになるという事

2,その作業を通して、自分がやっていた中途半端な演技を自覚出来るという事。
 (ダメな芝居をしている人に『そんな演技するなッ!』と注意する事は簡単ですが
  それでは、その人の自覚に結びつかない場合が殆どです。
  ですから、私の場合は時に逆療法的手段を取り、
  本人が何をやっているか客観的に自覚して貰うようにします。)

上記の効果を期待して、『アイドルの様に演じて』みてもらいます。
さて、どうなったでしょう・・・?
殆どの俳優がこうなります。

1,アイドル風の演技にいきなり入ろうとして、迷い始める。
2,行動の観察や分析をスッ飛ばしている為、自己を客観視するには至らない。

結果、表面的な、やはりアイドル風な演技が続いていきます。
しかし、俳優が、『あれ、これ表面?』『あれ、これはアイドル風であってアイドルではない・・?』『えっ、でも何がアイドル?歌う?』
で、度胸が良い人は歌ったり踊ったり。
でも、歌って踊ってる俳優はアイドルというより、その瞬間の稽古場を沸かすコメディアンになっていたり。

そこで、次の課題。

『アイドルの主たる行動は何?』
『彼女達は何を意図してるの?』
『何が目的?』

と問いかけながら、いわゆる『俳優として観察の仕方』を身につけてもらう事。

上記に関しては答えは千差万別にあります。
一応、50代半ばのオッさんから見たアイドルの観察と上記質問事項の答えを一例として下記に。

Q 『アイドルの主たる行動は何?』

A 『自分は可愛い存在だとアピールする』

Q 『彼女達は何を意図してるの?』

A 『守るべき存在・弱者・無垢なものに見えること』

Q 『何が目的?』

A 『異性に好かれる事』=『お金儲けになる』・『有名になれる』・『力の誇示』・『存在証明』

等々、色々なバリエーションがありますが、
アイドルちゃん(君)の根本的行動の根幹はコレでしょう。

アイドルの様に演じるにはどうすれば良いのか?

『アイドルの様に意図し、アイドルの様に行動する事!!
 アイドルの様に振る舞うのではなく!!』

その為には、まず " 対象に対しての観察と洞察が必然 ” 

そして、今日のCLASS ON BLOG の答えがそろそろ見えてきたでしょうか。

『俳優は観察』が大事と言われている理由は、
様々な人の行動、その行動の意図、状況の中で千差万別に繰り広げられる幾万もの行動パターンを観察する事が、俳優の無限の引き出しとなるからです。
そして、それは役作りに多大な可能性を与え、俳優芸術を高みにあげていく根幹なのです。

ただ注意するのは、観察した事をまんま演じるのでは、生きた演技にはなりませんからね。
最初に言った通り、観察した行動の意図を探り、俳優は板の上で、その意図を叶えようとすると
必然と行動してしまうという事です。
行動を模倣しているだけでは、アイドル風になるだけです。
そこは、良いトレーナーの客観視のもと、調整をするという日々の努力を続けて下さい。

話は変わりますが・・・

最近のテレビ、アイドル風な方、増えてません?
未熟モノ好きの日本だからなのか、アイドルだけではなく、
女子アナ、天気予報士を始め、多くの若い女性が『男性が好む』という理由で
『男性に好まれる』行動を判断の根幹に置いている。

ちなみに私は女性がこの行動に出ると、逆に引いてしまう天邪鬼です。
ちょっと前に流行った『微妙~ッ』などと甘ったるい声で言われると
頭突きをしたくなる衝動で溢れます。

男性に関しても同様ですけどね。
女の人がよく言う『やさしい男の人』『草食系男子』。
言ってみればアイドルもやさしい男も自分の言いなりになる存在がイイ訳で

『そんなヤツ、居るわけねぇだろ!可愛くするには可愛くする下心、やさしくするにはやさしくする
 下心ってもんがあるんだ、そんな事も判らねぇようじゃ、あんたさん、この渡世渡って行けません  
 ぜ』とタンカ切りたくなりますね。

そもそも女性は動物学的に、男性が"怖い"そうですね。
男性に近寄られ、拒みきれず万が一が起きてしまった場合、更に妊娠してしまった場合、
更に、その男が逃げてしまった場合、女性は一人で子供を出産、子育てするのですが、
もし昔だったら、これは母子共に生きていけない可能性があった訳です。
その為、女性は、本能的に男性が近寄る事が恐ろしく、
特定の人を決めたがる理由はここにあるそうです。
でも、セックス・アンド・ザ・シティのように、女性自身も楽しみたい!
と現代を生きるたくましい女性達は考えたのでしょうね。
その結果・・・無害な優しい男性を求めた。
とてもシンプルですね。

そして、男性は強い女性に対して草食という装飾をする新技術を覚えたり、
本当に草食になり、婚活していたり・・・

そういう訳で、未だに『可愛い女』『やさしい男』幻想で動いてる人達は結構多いのでしょう。
オタクの人でアイドルは裏があるのを承知で楽しんでいる人の方が、
まだ、対象の行動が正確に観察出来てるという事でしょうか・・・・

この辺の事象を、自分にも起こりかねない事だと認知し、
自分を客観視して、自覚的に演技のクラスに来てくれたら、
少しずつ演技術は向上していきますね、確実に。

頑張っていきましょう!

2013年4月23日火曜日

人生色々、男女色々・・・

世の中の男女関係っていうのは、本当に悲喜こもごもというか、千差万別ですね。
昨日、母の家に出かけたらテレビで『ビッグ・ダディ』という番組が流れていました。
子沢山の父ちゃん奮闘記的なドキュメンタリーで、年に一回はやってるように思います。
で、その子沢山のビッグ・ダディがなんと18歳年下女性と電撃再婚!!
18歳年下の彼女にも子供はどうやら5人いる!?
ビッグダディの子供達は合計14人?!(何となく見ていたので過不足はご勘弁!
って言う適当さがまかり通る位の勢い!)
その彼女との間にもやはり子供に恵まれ、更なる大家族へ!
そして幸せの大家族生活は・・・TVの期待通りきっちり破綻!!
そう、二人は離婚して、片や東北、片や九州と
また家族はバラバラになるというのが今回の番組の核なのですが、
それを観ていて

『まぁ、本当に世の中の男女関係というのは色々なパターンがありますなぁ』

と関心するわけです。

ビッグ・ダディと18歳年下の元妻の方二人共が共に子連れで、
大家族同士、結婚しても楽しく過ごせると思えたから結婚なさった訳ですよね。
元奥様にしてみれば、20代で40半ば過ぎのおやじと結婚した訳だから、
最初は自分もビッグ・ダディの一番上の娘になった気分だったんでしょうね。
子供達と一緒に子煩悩な彼の懐に抱かれて幸せだったのでしょうね・・・
それも長くは続かなかった。

何故でしょう・・・

断言しちゃいます。

何故なら彼女が欲しかったのは『頼れる父親』ではなく『頼れる夫』だったから

人はそれぞれ、己の欲求=個人のニーズというモノを持っています。
個体それぞれのニーズが叶うような生活を目指して人は働いたり、アートをしたり、ボランティア活動をしたり、ラジバンダリな訳です(ラジバンダリについては前ブログをお読み下さい。読んだらくだらなくて驚きます。先に謝罪します。すみません)
個体毎にニーズが違うことを種の多様性と言い、多様であるがゆえに、その種は絶滅に瀕さないという法則があります。
深海魚みたいな顔してる男性を『目が離れている所が、おおらかで優しそう』と見て好きになったり、おデブさんを『グラマー』と言って結婚相手にしたりと、多様な審美眼によって、人間という種は滅びずに一応生き延び続けている訳です。

要するに、人間は、一人一人が異なったニーズを持っているという事。

ビッグダディと若いお嫁さんと二人に関しても勿論同じです。
二人は二人で違うニーズが有るわけですから
双方のニーズが似通っている場合は上手く機能しますが
違った場合や、どちらかが譲れなくなった場合はそりゃ大変です。

ビッグ・ダディは、子供のニーズを叶え、柔道家として礼儀に厳しく、
そして、子供と同じ目線で遊び、学ぶという教育を実践しています。
子供の為に、朝から朝食を作り、くせ毛の子供の為には朝シャンまでして、
そして、子供におむすびを作って・・・
って・・・彼はいつ働いているんだ・・・?

問題勃発です。
ビッグ・ダディ、すごく子供のニーズを想定出来ていますが、
社会人のニーズが理解できないようで、どうにも自営の整骨院は閑古鳥。

そして、奥さんは離婚、移住の為にバイトの日々。

ビッグ・ダディも意を決し就職活動をしますが、なかなか上手くいかなかった・・・

ビッグ・ダディは家の中において、父親としては最高なのかも知れませんが
旦那としては、最高じゃなかったんでしょう。
子供に構い過ぎて、一番身近の妻の孤独に気づくことが出来なかった。
ある意味、本当に『子・煩悩』になってしまった訳です

番組の最後の方で、ビッグダディが離縁した年下の元妻に電話します。

軽い気まずさを超えて、いつもの調子で元気よく電話をかけたビッグ・ダディ。
自分によく懐いていた、元妻の子供の誕生日を祝う電話です。

ビッグ・ダディ『おめでとうって言っておいてよ』

元妻『うん』

ビッグ・ダディ『・・まぁ、さあ、あの子にもその内いい事あるよって言っといて』

元妻『・・・・そんなの私に言って欲しいよ』

ビッグ・ダディ『・・・・・・・(心なしかメガネの奥のつぶらな瞳が点)』

子供には子供のニーズがあり、子供のニーズばかりをキャッチしていくお父さんは、
いいお父さんであっても、妻にとってのいい夫(永遠の恋人)ではなくなった瞬間を
垣間見るドキュメンタリーであり、コレが、この夫妻のすべてを表しているように思えました。

ビッグダディから分析した男性に必要とされる二ヶ条

1,子供にとっては同じ目線で遊び、学び、そして時に教育者である父親である事
2,子供のニーズより最優先すべきは妻のニーズ

皆さん、自分の相手を自分のニーズでばかりみてませんか?
相手の方だって、あなたと同じようにニーズはあるんです。
それが判らないと、ある日突然『別れよう』って切りだされますよ。

って離婚歴のあるオレが分析しても説得力ないか
まあ、結果は二十年か三十年後に判ります、私も過去の経験を経て学んでおりますので。
10万年後にわかる原発の事後処理よりは大分マシでしょう。





2013年4月22日月曜日

Do the right thing 5 人間はまだ居住年数の浅い店子

日本では3・11以降地震が続いています。

TVのニュースはいつも大慌てで報道していますが、
元々、日本は地震大国で活断層が国土を縦に横にと走ってる訳で、
たまたま戦後は地震期に当たらなかっただけで、ある意味、地震があるのは自然な土地柄です。
勿論、私は地震の被害に合われた方々は本当にお気の毒だと思っていますし、
もう、これ以上大きな地震で人々が苦しまぬ様に日々祈っている一人です。

しかし、たまにニュースで
『地震が多くの人の命を奪いました』とか『台風がOO島に深い爪痕を残しました』等の
天災を擬人化したオーバーな表現に出くわすと『ううん??』
となる事があります。

何故なら、ご存知の様に、
地震や台風は天災ですから『故意』に人の命や生活を奪う訳ではありません。
それなのに、あたかも地震や台風に意志があるかの様な報道の仕方は
『人間至上主義』の傲慢な在り方に感じてしまうのは私だけでしょうか?

私は取り立てて『エコロジスト』でもないし『LOHAS』思考でもありませんが
" 人間はまだまだ居住年数の浅い店子に過ぎない " 
というのが私の地球に対する一人間としての基本理念です。
大局的に地球というものを見たら、アジア圏だ、ヨーロッパ圏だ、国だ、領空だ、領海だ、
『ココはオラが土地だッ!』と誰がどんなに騒いでも、
地球数十億年の歴史からみれば、人間の歴史なんて短い短い…
その人間が、長い歴史の中で埋蔵された石油という化石燃料をほぼ使い果たし、
冷戦時から全世界を破壊し続けるだけの核爆弾を生み出し、保有し、
平和利用として10万年先という責任の持てない時代にまで負の遺産を生み出している。
それで挙句の果てに、『津波が多くの人の命を奪った』と全ては地球のせい。

物事は正確な情報の積み重ねで考えていく事が正しいとは思いますが、
原発に関しては利得を得ている人達の説得に奔走し続ける10年で決着は着くのだろうから、
そこについては今日は言及せずに、

" 人間はまだまだ居住年数の浅い店子に過ぎない " という基本理念で
何故、人は自然、地球のせいにしたがるのかを考えてみたいと思います。
(個人から国まで、ほんのひと時、地球という『大家さん』から生活の地をお借りしてると考えた方が、世の中の色々な問題がもう少しスムースに解決するのではなかろうかと浅知恵の妄想をしたくなるのです。そんな簡単じゃないと判っていても・・・ミュージカル RENTに出てくるようにキリスト教思想にある考え方ですね、これ。)

まずは地球のせいにしている事例

・・天災である地震や台風をヒステリックに殺人犯呼ばわりしている、
  テレビのアナウンサーやレポーターの方々

『もっと叫ばなきゃいけない事たくさんありますよね?』

この間の福島第一原発、核汚染水漏洩問題にしても、
『二重のシートで漏れたから、三重にしたけど漏れました』ってコレどうよ?
赤ん坊のオシメの話してるんじゃないんだから!
どっか東電の記者発表してる人達もポケーッとした感じで切迫感がない上
『この防水シートが、以前、別の現場で漏洩したという事例は知っていたが、
今回は三重にしたから大丈夫なのだろうと思った・・』って・・・
ヒステリックに報道しなきゃいけないのはこっちの方だと思うのに
コメンテタ-も冷静なトーンで『安全には充分に配慮して貰いたいですね』だって。
勿論、報道というものに主観が交じったら報道が扇動になって
アジテートになりかねないので、あくまでもTVにおいては冷静さが求められるとは思います。
でも、コメントする人はレポーターでも報道員でもジャーナリストでもない。
その道の専門家であったり、作家であったり、する人達。
彼らは職業的に、自分の発言に責任を持たなくてはならない人達。
だったら、責任持って言うべき事は言っていただきたい。
殆どの国民が『は?』と思うような事を、マスコミで軽くあしらう事で、
事件事体の比重を軽くするというのは、マスコミの最大の負の遺産。

地震、津波被害の時は
『OOではまだ悲惨な状況が続いてます!』なんて思い入れたっぷりにやってるのも
おかしくないか?ソレ?

テレビ局には一体どんな利権が絡んでるの?
地震や台風は誰の責任でもないからツッコミ易いの分かるけど、それでいいの?
と言いたいと思っているのは私だけでしょうか?

と、ここまで書いたら
" 人間はまだまだ居住年数の浅い店子に過ぎない " という基本理念で
何故、人は自然、地球のせいにしたがるのかを考えてみたい

この答えがもう分かりましたね。

答え。

人間は、弱くて間違いを犯しやすい生き物だから、
絶対的に間違いの無い、自然に全ての責任をおしつけたい。

原発は人災だという事は今や誰しも知っている答えです。
ただ、その人災を犯した人達の人数が多すぎて、なおかつ、それを犯罪呼ばわりすると
一体どこまでの人が窮地に立たされて、しかも、もしかして、自分も恩恵受けてたりするの?
とか考えると、業界なんかじゃ誰も原発という人災に立ち向かおうとはしませんやね。

ただ、表立って原発推進派を支えるのはメディアとしても出来ないから、
何となぁく何となぁく、自衛隊で命をかけて領空最前線では日本を守る自衛官を
勇ましいBGMと共に流して、自衛隊への印象を良くしたり、と言うように間接的に(まぁ、これほぼ直接的に見えましたけどね)憲法改正を支持するアジテートを視聴者=国民にしている訳です。

原発の安全神話で私達は反省すべき洗脳を受けてきました。
これからも、マスメディアからの注意すべき洗脳はそこかしこで行われます。
マスメディアは決して馬鹿ではありません。
テレビは視聴者よりも馬鹿になったと言われて久しいですが、
そう思わせておいて、視聴者を結局獲得したままここまで来ています。
一定の視聴者はいるんです。
そして、例えば憲法改正に関しての具体例として、自衛隊への憧れをテレビを観ている
子供達が抱いたら・・・

憲法改正は国民投票です。

『憲法が国民を守り、法律は国民を縛るもの』
『憲法は国家権力から国民を守る為のもの』

という教えを受けずに成長した子供達が、国民投票権を持つ年齢になったら・・・
憲法改正はマスメディアという第四の権力の成果として成功するでしょうね。

タバコと酒を嫌う子供達が成人し始めているように。

テレビマンの中にだっていい番組を作っている人もいます。
全員じゃありません。戦っている人はいます。

物事を考えるときに、どうか大人として子供の事を考えて
大局的に考えてほしいです。

Do the right thing ! man!

2013年4月20日土曜日

Do the right thig ! 3 or 4 感動と行動は別問題

前記した哲学者で武道家の内田樹先生の本を今日も読んでおりました。
結婚を語られてる下りで、注目の一節

『結婚は損か、得か?』と考えること事体が消費社会の産物。

コレ、なるほどねと思いました。
そう言えば、私も含め今を生きる私達は物事の判断基準をすぐに
『損か?得か?』で判断している様に思います。

そして、この価値基準は多くの場合、快楽やエゴに委ねられ、
人を深い洞察世界には導きません。

もし損得で世の中のすべてが動いていて、それが真理で美しい事であれば
金持ちは善で貧乏人は悪という事になります。
現代思想よりも以前の 善悪二元論 での思考という事です。
良いか悪いか
損か得か
今の時代は、双方に良い所があって、答えなんてないという相対主義がメインの考え方です。
でも、相対主義って、すごく不安定なんですよね、答えがないから。
だから、人はやっぱり答えをまた求めるようになっています。
そのいい例が、ドラマや映画と言った物語。

一番わかり易い例は韓流でしょう。
とてもシンプル。明快な勧善懲悪。

まぁ、ストーリーの基本プロットに完全超悪のものは本当に増えていますね。
そして、こういった多くの物語りにおいて、金持ちは善で貧乏人は悪でしょうか?

逆ですね。金持ち(権力者)は悪になっています。

ドラゴンボールの孫悟空なんかは、私欲の為ではなく、祖父の形見のドラゴンボールを
探す為の旅をする中で、私欲の為に働く愚かな大人達を次々と打ち負かし、
最後は地球の皆に元気玉としてパワーをもらって、皆のヒーローにまでなって、
地球を守るという、清貧を良しとする勧善懲悪パターンです。

こう言ったアニメやSFで、
弱者=損してる人(金銭、社会的地位等) が 強者=得してる人(金銭、社会的地位等)
を打ち負かすストーリーに熱狂している人々が日本のみならず、フランス、アメリカ多くの国に
いるようです。
でも…現実の社会にいる自分の事になってしまうと、何故かすぐに強者の側につきたがるのは、
私も含め人間の哀しい性ですね。

ルークやヨーダに憧れてるのに、実生活ではダース・ベーターを恐れて
すぐに帝国軍に入って個性のない白いヘルメット被ったストームトゥルーパーになっちゃったり…

スター・ウォーズ以外で言うならば、のび太君が放っておけなくて、結婚を決意するしずかちゃんに憧れていたのに、実際はきちんとOLの後、安定した普通の男性を結婚の最低ラインにしちゃったり…

ラジバンダリ…(これは関係ないです。昔見たギャグ。フィリピンパブの女性の名前がラジバンダリで、話の途中で~したり、~したり、ラジバンダリ、といつも言うギャグを思い出してしまいました)

『結婚って…得ですか?』この質問のサブテキスト(心の内なる声)を内田先生が分析したところ
『結婚したいんですけど…迷ってて…確実に得だよっていう一押しがあれば決心できるんです!』
こんな感じのようです。

しずかちゃんは、損得を考えていない。だから彼女の行動は美しくうつるのでしょう。
これは無私とも言えますね。
でも人間、なかなか無私な行動は選べない。

ここで今日の主題   『感動と行動は別問題』

よく出来た作品は人を感動させ、少なからずその人のその先の人生や生き方に影響を与えるものです。古今東西、力のある作品は啓蒙的要素が内包されるので人々はそれをマスター・ピースとして長年愛し続けてきました。

では、今アニメに熱狂してる人達はどうなのかと思うと、ちょっと疑問。
それは感覚的に言うと、その人達に『身体性』が感じられないからです。

私から見ると殆どのアニメのストーリーの主題は『義』です。
己の損得考えず、友情の為、信じるモノの為、危険を顧みず敵に立ち向かってゆく主人公達。
作家ごとの応用はあってもヒットアニメ(漫画)は殆どこのパターンで

『ああっ、またコレね』って感じです。
(漫画は別ですね。多種多様でもはや文学と思えるものも多いです。)

で、こんなに『義』の表現=キャラクターの " 勇気ある行動 " 
に多くの人が熱狂してるのに、今の日本では『義』のある行動にお目にかかる事は
めったにない。

それは何故でしょう?
簡単です。
自分にとって損だと思う事には反応しない。
自分にとって得だと思う事には反応する。
反応した事に対しては人間行動します。好奇心が刺激されていますから。
反応しなかった事には人間行動しません。生きる上で、排除すべきものだと判断しましたから。

要するに、『義』のある行動の殆どが、ハイリスクノーリターンで、
損得で動く現代日本においては、反応しないでいた方が得策だと考えている人が多いという事です。

原発が良い例ですね。
原子爆弾を落とされ、尋常ではない同国民の命が奪われたと言うのに、
『五重』の防御があれば安全だ!という安全神話だけで、本当に安全だと信じるでしょうか?
もし、原発というエネルギーが、ハイリスク・ノーリターンだったら信じるでしょうか?
例えば、アメリカでは爆弾としてしか実験されてないけど、日本で原発実験したいから、
安全かどうかはわからないけど、ちょっとやってみろよ。
多少のギャラは払うからさ。
って言われたら…誰も安全だとは思わなかったはず。

損得的には、『全体的に損だな』と、企業家も冷静に判断したはずです。

でも、誘致には全く別の歴史がありますからね。
読売新聞に掲げられた『トラも飼い馴らせば家畜』という見出し。
正力松太郎が懐刀であるCIAの柴田を使って、どうにかアメリカから原発を導入させる動きが
あり、あれだけ原子力に対する恐怖心のあった国民に安全神話を信じさせるだけの
情報操作をしました。
マスメディアが第四の権力と言われるのがよく分かる一件ですね。
(これは話すと長くなるので、またの機会に。)

昔、学生運動の時代、高倉健さんのヤクザ映画が流行りました

『義理と人情を秤にかけりゃ~♪義理が重たい男の世界~♪』。

『義』というのは私見ですが 『本当はイヤなんだけど、ポリシーの為にはやるぜ!』って事で
冒頭に書きましたが、損得超えた、人の行動の内にある意識のあり方です。

映画のヤクザにしても当時の学生にしても " 行動の是非は別にして "
『義』の為にドスを血に染め、ゲバ棒や火炎ビンを手にしたわけです。
そしてその行動の背景には、実は愛する妻と子供がいて、本当はそんな事したくないのに
しなきゃならない…みたいなね。
そういう意味では、ヤクザ映画の流行と学生運動は同じカードの表と裏の様にも思えます。

で、今はどうかというと、感動はしてもその意識のあり方や行動を
自分の生活や活動に取り入りれず、あくまでも他人事として楽しむという在り方。
『ヤクザなう!』『ブルース・リー最高!』
呟いて…終了。
影響を受けて、風を切って歩いたり、タオルでヌンチャクしたりはしない訳です。
これが私流に言うところの『身体性の伴わない感動』。

今を生きるクリエイターは大変です。どんな名作だろうが、消費産物にされてしまうから。
勿論、芸術作品の良き理解者は必ずいます。
ただ、芸術は『損か得か』で言ったら、
金銭面では『得はない』
が、人生における豊かさという意味では『得である』
になる。
という事は、資本主義社会日本においては、金銭面での損得勘定がメインになりますので、
プロデュースの皆さんが、まずは芸術作品よりも、損得の得をとろうとします。
すると、どうなるかと言うと、
流行を追いかけている若い世代に合わせた作品になっていくのです。
あれよあれよと言うままに、戦後拝金主義から、今の現在日本の未熟さを良しとする文化の
背景が見えてきましたね。
要するに、未だに未熟な拝金主義に毒されたままなんです、人々は。

そりゃそうです。
終戦時、地に突っ伏して涙した時代から、まだ70年弱。
中国を見て、遅れてると感じてる私達の国はまだまだ立憲民主主義としては
非常に若い国なんです。

マジョリティは『流行ればイイじゃん』

クリエイターとして、俳優のアートを守る事を義を持って行動していこうと思います。

Do the right thing!



2013年4月18日木曜日

カッコ良く老ける・・・

スー・チーさんをNEWSで観ました。印象に残った言葉。

『大統領になりますか』と聞かれて

『私は名誉や地位が欲しいから大統領になるのではありません。
 国の為に私が出来る事が沢山あるから大統領になるんです』

ハイ、恐れいりました。あらゆる職業の人に適応出来る言葉ですね。
私が感じた大事なこと。
スー・チーさんは “ あるべき国の未来 ” をイメージ出来ていて
具体的に “ 何をどうすればいいか ” を判っているという事。

コレ、演技術向上の方法にも通じますし、
ポリシーという昨日の話題にも関係しています。
恐れ多くも、不遜樋口隆則がトレーナーとしていつも考えていることを
スー・チーさんの言葉に重ねてみます。

『私は名誉や地位が欲しいからSYMBIONの創設者になり、演出や監督をし、脚本を書くのでは
 ありません。俳優の為、より良きクリエイションの為に私が出来る事が沢山イメージ出来るから
 SYMBIONの創設者になり、クリエイションに乗り出したんです』

決して傲慢な意味合いではありません。真意です。

続けて女史はこんな事もおっしゃってました。

『リーダーに要求されるのは信念です。
 時に反対され批判をうけても、
 自分がみんなにとってプラスだと信じた事をやり通す決断力と行動力。
 私よりもみんなにとってより良い政治をするとみんなが信じる人が現れたら
 私が去れば良いのです。
 そして、そういう人が現れることを私は願います。』

なんとイサギのイイお言葉、続けて

『私はあまりマスコミに受ける言葉を使いません。
 攻撃的な言葉や派手な言い回しをマスコミは好みますが、私は好きではありません』

何処かの国の政治家や芸能人に聞かせてあげたいインタビューでした。

で、今日の話題は 

『クリチャー化』という事。

人は誰でも歳をとります。
若い時の容姿は失われ、肌が垂み、シワができ、髪は抜け落ち・・・と
要するにフケる訳ですが、誰しも同じように老ける訳ではない。
私が見る限り、老け方には二つのタイプがあるように思います。

二つの老け方、そのタイプとは・・・
『醜くフケる人』
または
『かっこ良くフケる人』

この2パターン。これ、確実に存在します。

前者、醜く老ける人達がテレビに出ているのを見ると、

『ああ、この人、昔はキレイだったのに、すっかりクリチャー化してるなぁ』とか
『う~ん、この政治家、スター・ウォーズに出てきそうなクリーチャー・・・』とか
悲しく、痛々しく、時に吹き出しそうに思っています。

自分と周囲の人達は、どうかクリーチャー化せずに
格好良く老けていきたいなと切に思う瞬間ですね。

反して後者、格好良く老ける人はどんな人かを昨今で言うと・・・
スー・チーさん や 三國連太郎さん に始まるポリシーありきの人達だと
私は判断しています。

この二者の違いは何なのか?
一考の価値ありですよね。(自分の為にも)

で、私の答え!!

『かっこ良くフケる』為には二つの条件が必要!!

1、『知性』

クリーチャー化している人には『知性』を感じません。
コレは学校の勉強が出来るできないの知ではなく、
人生の色々な経験を積んで、深い洞察と思慮を伴った『賢者』となってるかどうかです。

2、『無私』

クリーチャー化している人達はウマイことを言っても
己の欲望のみを追求しています。
当然、私含め殆どの人は聖人じゃありませんから、利己心はあります。
失敗もするし、間違いも犯す。
でも何処かに " 己を投げ捨ててもいい "という
エゴを超えた何かを持っていないと、
『かっこ良くフケる』ことは難しい。

という事で日本の政治家の方々は殆ど全滅。
芸能人も本当にかっこ良くフケてる人は極々わずかです。

まあ・・・タレントや俳優の場合クリチャー化しても、
見世物ですからそれが商売になる、ある意味業の深い仕事です。

俳優って・・・本当に変な仕事・・・

スー・チーさんは本当に『かっこ良くフケてる』見本です。
戒めます、己を。

Do the right thing!






2013年4月17日水曜日

ポリシー無き世界にて・・・三國連太郎さん追悼

ポリシーなき世界にて
ポリシーとポエジーを並走させた三國さんへの追悼として。

尊敬する俳優さんの一人、三國連太郎さんがお亡くなりになられました。

昔、TVで放映されたドラマの中で氏はゴウツクな老人を演じていらっしゃった。
寝床から起きざまに、ナマナマしくユダレを垂らしながら、鬼気迫る演技でした。
その姿はまだ俳優というモノを意識していなかった若い私の目にも

『このおっちゃん、只者じゃない』という印象を与え、学校に行くとみんなが

『松田優作カッコイイよな』
『やっぱ、ショーケンだろ』

と話してる中、私は一人ある種の優越感を感じながら

『馬鹿、本当にスゲーのは三國だぜ』

後日、友達とショーケン(萩原健一・当時の若者のイコン的存在)が主演した
『雨のアムステルダム』という映画を観に行った時も、出てましたねご贔屓の三國さんが。
しかもショーケンに惚れてるホモの富豪のおっちゃんの役で。
で、やっぱりその映画でも三國さんの演技は濃ゆくて、匂ってきそうな演技でした。

『やっぱり、三國スゲーッ!』

役者を志してから、三國さんが出演している色々な映画を勉強させて頂くつもりで拝見して、青春の時期、私が感じた『スゲーッ』はやっぱり本物だったんだと実感し、更に尊敬の念は高まりました。

『匂いのある役者』

これ、私が好きな役者さんのタイプです。どんなに美男・美女でも、演技が上手くても、
私は匂いのない役者さんを好きにはなれません。国内でも海外でも
その存在から詩情を感じるというか・・・
ポエティック風はたくさんいますよ、そういうのはナルですから、NG。逆に大嫌いです。

ポエジーはポリシー無き者には醸し出せません。
人は往々にして、流されてしまいがちな生き物です。まして浮草稼業の芸能界を生活の糧=職業としている人ともなれば尚更のこと。

一端三國さんの様にポリシーを持てば流れに抵抗することになります。
つまり・・・足元が危うくなる。
その危ない綱渡りをやれる人だけがポエジー、特有の匂いを纏えるのではないか
と、今回の三國さんのご逝去から考えされられました。

人は三國さんを『異端児』だとか『怪優』と片付けますが
氏の人生が表現したものはアーティストとして、またクリエイターとして
最も王道で、最も誠実だったような気がします。

親の最後の教育は、親自身の死を子に体験させることだと言います。

多くの若き俳優の師である三國さんへ謹んで御冥福をお祈りします。

2013年4月16日火曜日

Class on Blog 8 自己開放??

私は最近、SYMBIONに限らず、色々な養成機関からお声をかけて頂き、
トレーナーをやらせて貰っています。

場所は変わっても俳優を志す若者は悩み多き人達なので、私はよく質問を受けます。

『私売れますか?売れませんか?』
 
      ↑
『それは、神様だけが知っています』

『芸能界ってどんなとこですか?』
      ↑
『人によって捉え方が違うので、一般論はありませんが、憧れだけで生きていける
 甘い世界じゃありません』

『イイ役者さんって誰ですか?』
      ↑
『たくさんいらしゃいますが、取り敢えずあなたが今イイ役者だと思う人があなたにとっての
 イイ役者さんです。後で演技に対しての理解力が増し、例えその人が大したことなく見えても、
 それはまだ先の事ですから、人には聞かないで自分で判断する事』

で、本日賜ったご質問。

『僕はナカナカ演技の時に自己開放出来ません、どうしたら自己開放出来るんでしょうか?』

一見、演技を学んでいる人のごもっともな質問、で、私の答え

『じゃあ、ココで自己開放した演技とそうじゃない演技を観せてくれる?』

『・・・・・・・・・』

『ホラ、具体的に判らないから、何も出来ないないでしょ?それはね、キミの中のある観念なの、
 そんな事で悩んでいるより、自分の事は置いといて、もっと相手役に集中しなさいよ、自己開放
 なんて考えてる暇なくなるから』

『はぁ・・・・』

『言っとくけどね、俺、演技やってて一度も「自己開放」なんて考えたことないよ』

『そうなんですか!?』

『そうだよ、自己開放しただけでお金貰えるなんて、そんな虫のイイ話、この世の中どこにあるの』

『そりゃまぁ、そうですよね』

で、一件落着。

確かに、優れた芸術家はその創作のプロセスにおいて、自己と向き合い、
自分の暗部を引っ張り出し、苦しみながら作品に投影させます。
しかし、それは今日の彼が私に問うた「自己開放」とは天と地ほど違うものです。

「自己開放」=「自己満足」=「仕事」はどんな場合もありえません。

仕事とは「事」に「える」から仕事です。自分が始めじゃないんです。
辛い仕事に一生懸命、時に奴隷の様に仕えて、その中に自分なりの小さな足見つけ出し、
自分が関わったその仕事が成功したら、己の苦労も報われたと喜び開放されるのです。
私はこれが本当の自己放だと思っています。




2013年4月12日金曜日

Respect For 来家

何だか、二三日ブログ書かない間に、世の中えらい事になっている。

北朝鮮がミサイル飛ばす。
核汚染水の漏洩
中国で鳥インフルエンザで人死んでる・・・

ニュースでは『また、非常時になったらスグにお知らせします』だって、
この三つだけでも非常時になった時にはもう遅い訳で、私の耳にはテレビのアナウンサーの言葉
が洒落にならないブラックユーモアの様に響きました。

本当にDO THE RIGHT THING でお願いしたいです。

書くとそれぞれに長くなる話題なので、今日は別の話題を書きます。
NEWS以外、TVを殆ど観ない私が割とよく見るのがNHKのドキュメンタリー番組です。
昨夜も『アスリートの魂』という番組で来家恵美子という女子ボクサーを観ました。
(以下NHKのホームページより抜粋)

長年、日本の女子ボクシングを引っ張ってきた来家らいか恵美子選手。
彼女にとってボクシングとは、“生きること”。
3歳から児童養護施設で育った孤独を癒し生きる喜びを与えてくれた。
強烈な右ストレートを武器に世界タイトル3階級を制覇。
彼女に憧れてプロ入りした若手も多く、
女子ボクシングの存在を世に広めた最大の功労者となった。
そんな来家選手も37歳。肉体のダメージは大きく周囲から引退を勧められた。
それでも、リングの上が唯一自分の生きる場所だと現役にこだわり続ける。
一戦一戦を、生きる場所をかけて挑む来家選手の生きざまを見つめる。


という様な内容でした。結論からいうと感動して何度も涙し、勇気をもらい、己の居ずまいを正す思いになりました。下手映画や舞台数十本観るより、私にとっては観るに値する番組でした。

私はプロレスラーの息子だからかも知れませんが、
昔から『秀でた身体能力』を持つ人に関しては、まず無条件でリスペクトします。

身体は嘘をつきません、訓練したら、しただけの事はその人の身体に現れます。
その為にはその人はある時期、自分を律し、様々な誘惑に打ち勝ち、
ひたすらその技術の習得の為、自分の人生を費やすのです。
それでなければ、ダンスやスポーツや格闘技の技術など身につきません。
まして世界レベルとなれば。

来家さん、然り。
でも、彼女はもう37歳。現役としてはもう限界の年。
身体はすでに悲鳴をあげ、心が何度も折れそうになっても
自分の孤独を癒し、居場所を作ってくれたボクシングのリングに命をかけて挑み続けている。

インタビューでも不器用な彼女はカメラに媚びを売ることもなく、とつとつと自分の思いを語ってゆく
ボクシングに明け暮れ、他のこと等どうでもイイとばかりに散らかった部屋で、孤児だった彼女が、
最近、趣味になったパンづくりをし、自分の口に運びながら。

『年ですから、家族欲しいなって思います。でも、そこに行くには今はまだボクシングをやらないと
ダメだと思っていますから』

ジムでのトレーニング風景、トレーナーからは『一回でも負けたら引退』と宣言され
長年酷使した拳は試合三日前に異常発生、痛み止めの太い注射の激痛に喘ぎ
試合はギリギリの判定勝ち、最後のインタビュー涙をこらえながら

『怖かった、負けたら引退だから、怖くて、手が出なくて・・・・』

パンチを浴びて変形している顔をぐちゃぐちゃにして、タオルで涙を拭きながら話す。
決して美人とは言えない彼女。
でも、見目麗しく、程よい演技をして、悦にいっている女優や俳優より
彼女の方が何倍も人として、そして人前に立つプレイヤーとして
美しく見えるのは私だけでしょうか?

並の役者は人として敵いませんよ、来家さんの様な人間には。
お互いちゃらい事は止めましょうね。本物になりたいなら
演技において、何がちゃらいか判らない人はもっと勉強して下さい。
技術だけの問題じゃないんです。
そのモノに向かう姿勢は演技にも必ず出ますから






2013年4月7日日曜日

Class on Blog 7『自分が感じる 感じない…?』


シェークスピアとメソード


今回のワークショップから、私は積極的に国内外(リアリズム内外)の様々な戯曲をシーンスタディの題材としてクラスに持ち込もうと思っています。

その皮切りがシェクスピア大先生。
ある程度、演技を誠実に学び、実践してきた俳優ならWSHAKESPEAREという劇作家の作品に触れる事がどれだけ難易度の高いシーンスタディになるかが予測つくかと思います。

シェークスピアの卓越した人間観察眼は、ギリシャ悲劇以来16世紀もの間、宗教劇しかクリエイトしていなかった英国の演劇の遅れを一挙に先進させました。各キャラクターの内面を描いた心理描写は、最も優れた英文学…そう、文学と言われる程のものなのです。

とても大事な部分です。

何故人間は文学を読むのか?
答えは読み手の数だけあるでしょう。
挙げたらキリがありませんので、まず一つの答えに限定します。

何故人は文学を読むのか?

それは『人間が描写されている』からです。

典型的な善人であったり、典型的な悪人であったり、予想外の行動をとる悪人だったり、二面性を超えて何重もの人格を持つ善人であったり…

多くの人は、文学に出てくるキャラクターの行動を読む=生きる事で、
自分の人生においてあんな事にならないように浮気女には注意しよう、とか、
ジゴロ男に騙されて悲惨な思いをするのは結婚前までにしよう、とか、
お金ばかりの人生なんてつまらない、本当の意味で豊かに、アーティスティックに生きよう、とか、
色々と感じ、考えて参考にしたりする訳です。
要するに、ある意味では人生の参考書みたいな所があるんですね。

ぶっとんでいるJバタイユなんかの文学も、『ぶっ飛んでる』人のモデルタイプとして読む=生きる事が出来る。(自分が登場人物のように、ナルシスティックで文学的な人生を模写して生きる事も出来る)
文学を読む事で、人は現実では生きられないいくつもの人生を生きる訳です。

更に、文学好きがこうじて読み進めていくと、作り手側の視点で読み進む楽しみ方に変わっていく人が多いようです。キャラクターのモデルタイプとかよりも、時代の中でどのような影響を受けてキャラクターに事件が起こったり、何も起こらなかったりするのかを理解して読み進んで行こうとする。

更には、時代の哲学、時代の事件の解明を求めて、ニュースや新聞よりも文学から真実を学ぼうとしたり…

年を重ねるごとに、文学作品がその印象を変えるのはこのせいでしょう。読み手が良い意味で成長をしているのです。

ここで一つ。
いい俳優になるには30年かかるという理由の一つがここにあります。
人生経験が積まれたら、『罪と罰』が理解出来てしまったりするもんなんです。
ただ、ここに落とし穴があって、文字に対しての慣れは若い頃に学習していかないといきなりは読めません。だから、『罪と罰』の真意までは分からずとも若いうちから必死に分かった振りして読んでみて、少したってからまた読んだら大分印象変わって、30年経って読んだら、本当に心の底から『腑に落ちる』状態が理解できたりする。

これです。

俳優は、シェークスピアのような古典を若いうちから真意が分からずとも必死に分かった振りして演じて(生きて)みて、少したってからまた演じたら(生きたら)大分印象変わって、30年経って演じたら(生きたら)、心底『臓腑に落ちた』状態で、キャラクターの真意が理解できたりする。
そうなったら、キャラクターと俳優は一体でしょう。

良い文学作品においては、必然的に時代の影響でキャラクターの人生は変貌を遂げたり、何の変貌も遂げなかったりします。理解していく分析力、洞察力が俳優に必要な技術となります。

ここまで書いたらシェークスピアを第一回目のクールに選んだ大きな理由はもう分かってきましたね。

英国最高の文学を超え、洋の古今東西を問わず全世界において最も優れた文学と評される作品のキャラクター達。
その生き様は、現代リアリズムの基礎であり、現代を生きる俳優にとって、リアリズムのみならず、演劇の魔法(ギミック)により俳優自身を高みにあげる可能性に溢れた戯曲である。

では、ここまで壮大な作品を自分が演ずる事になったら、
何から準備をするか?

はい。ワークショップ前の準備段階としてのレクチャーです。

文学に少しだけ話しを戻します。
文学における読み手=観客という図式を浮かべてください。
文学における読み手は=演劇における観客となります。

多くの読み手は、キャラクターの人生を追体験して生きる事が喜びであったり、その後の自分の人生においてのモデルタイプとして使用したりすると書きました。
これに“読み手=観客”の図式をあてはめてみましょう。

多くの観客は、キャラクターの人生を追体験して生きる事が喜びであったり、その後の自分の人生においてのモデルタイプとして使用したりする。

理解できましたね。俳優が絶対に忘れてはならない事が
読み手=観客 の図式です。
観客がキャラクターの人生を追体験する為に、俳優という生きたキャラクターが作品と観客の間の生きた媒体として存在するのです。

文学との違いがここで出てきます。
もう分かってきました?
そうです。文学と読み手=戯曲と観客 という図式が成立しないのです。
読み手に読まれるだけの戯曲はレーゼドラマと呼ばれるものです。
レーゼドラマには俳優は不必要。
しかし、戯曲を上演するには俳優が必要です。
そして俳優は生きています。
生きた人間が、観客に追体験をさせるのです。

マジックも、科学も解明されている事が殆どと思っている観客達を全てがフェイクの演劇にのめりこませるのは俳優の力です。
俳優の特殊能力と言えます。

観客を、ぐいぐい引っ張って現実を忘れさせるような力を持った戯曲のもとで、初めて俳優のその特殊能力は発揮されるのです。
また、俳優の能力がなかったら、現代においては戯曲もその力を発揮できません。
ここが演劇の総合芸術たるゆえんの一つです。

シェークスピアで観客を引っぱり続けるのは並大抵の努力では出来ません。
リアリズムを根底に持ちつつ、時代の背景、時代の哲学、時代の文化をリサーチしていく。
頭で理解したら、その数倍の時間をかけて身体感覚におとしこんで、頭で考えなくても習慣的に時代のキャラクターとしての動きや喋りがあらわれる。
その上で、『生きるべきか…死ぬべきか…それだけが問題だ…』と呟くのです。

頭でっかちで芝居は出来ません。

更に、自分のままでシェークスピアのキャラクターを生きる事は出来ません。

ここ、とても大切で、勘違いしてはならないところです。

これに合わせて、俗に言われる『メソード』というモノに関して、私の見解、並びに私がニューヨークで見聞きした事を書いてみたいと思います。

長くなりましたが、ここまでは前説。
ここからが今日のClass on Blogです。

まずは問題提起から。

1、日本の多くのトレーナーがメソードが何故必要なのかを本当の意味で
理解していないという現状。大体のトレーナーが『本を読んで』とか、『聞きかじり』とか、『1〜2回習った程度で間違った憶え方をした人から更に習っていたり』とか…原因は様々ですが、共通しているのは、身を粉にして会得した訳ではなく、何となく現場で活躍する機会があったからそのまま講師になったけど、今更勉強しづらくて、何となく自分なりの努力しかしてません…(心の中で反省しています)というトレーナー達。
私が前回ブログに書いた『仕事は嫌いだけど、いい人』パターンの先生。

悩める先生方に一言アドバイス
『日本にはメソードなど習わなくても素晴らしい俳優さんはたくさん居ます。というか、多分、あなた方は活躍出来た以上、そうだったという事でしょう。そこに自信を持って下さい。要するにイイ演技が出来ればメソードであろうがイワシの頭だろうがOKなんです。ただ!…教える場合はちょっと勝手が違います。そこは生徒の為に過去の活躍は忘れて、真摯な学習を自らに課す事をお願い致します』

悩める先生方に私よりも偉大なトレーナー兼演出家からアドバイス
『俳優は観葉植物と一緒です。水をたくさんあげなくてはイケないモノと、あ 
げ過ぎちゃいけないモノがあります。それを見極める事は導く者の責務です(英国の大演出家ピーター・ブルック談)』

2、メソード系教師の問題点
先日、竹野内豊がニューヨークに渡ってメソードトレ―ニングを受けた。というNHKのドキュメンタリー番組を見ました。その中で彼はアニマルエクササイズというのをやらされていた(簡単に言えば動物の模写をして、その時のセンスを使ってキャラ作りをする)。でも、竹野内君、どうにもアニマルエクササイズが腑に落ちない様子。トレーナーも竹野内も最終的にはなんだか未消化なままワークショップ終了。大分、乱暴に割愛して書いたけど、ここから理解したい事が一つあります。それは…“もしそのトレーナーがいいトレーナーなら、何がしかのモノを彼に与えてあげられていた筈”という事。彼が『?????』っていうのは、結局そのトレーナーは彼にとって良いトレーナーではなかったという事です。大事なのは今の彼に必要な事だったのに、トレーナーは彼に必要な事と、彼に適する事を見抜けなかったという事。“トレーナーだって万能じゃないんだから”と慰める優しさは『なぁなぁ』につながります。トレーナーは、俳優の能力を責任もって引き上げるからトレーナーなんです。(俳優が適当な取り組みでは成立しませんよ、互いの責務を全うして初めて成立するものですから)

この問題提起内容を分析していきましょう。
各俳優に必要なエクササイズは各俳優によって違う、という事。

では、多くの俳優が闘い続ける自意識からの逸脱を例に問題解決してみましょう。

メソード系トレーニングで最も有名なのが

『リラクゼーション』

というエクササイズです。(簡単に言うと自分の体や心にフォーカスを当てて、緊張をとるというトレーニング、自己開放という名の元に俳優は『怖いよ〜』
とか、泣いたりとかしてしまう)

私の見解では只でさえ内省的な俳優という生き物をより内省的にさせてしまう代物。コレは心理学上でも既に証明されてますが、人は自分の内側にフォーカスが向かえば向かう程、自意識が強くなり、他者や状況に向かえば向かう程、自意識から離れるのです。

でも、俳優にとって有効であれば良いのですから、現場での緊張感から開放される為に有効かも考えてみましょう。
映像現場100本超えの私の経験から考えますと…現場で自己開放だ、リラックスだなんて言って、体グニャグニャにして緊張から逃れる為に『怖いよ〜』なんてやったら一発で仕事なくなりますね…最近は特に時間がない現場が多いですから…違う方法でベスト状態に持って行ける方法を皆さん探した方が懸命でしょう。

メソードというのは、俳優個人が感じているか感じていないかが、良い演技かそうでないかをはかる尺度になっています。だから前術の様に内側にフォーカスを向けるトレーニングが主要なトレーニングとなる訳ですが、結局、コレも本末転倒で俳優はそのストーリーや役を通してお客様(読み手)に何かを伝え、追体験をさせてあげるのが仕事なのに、自分が感じる事が仕事になっている、コレおかしいでしょ?
コレって、読み手=観客ではなく、読み手=俳優になってしまっているんです。自分の感じたいように勝手な解釈をしてしまう。
俳優のトレーニングの初歩段階として必要な事があるのは認めています。
でも、勘違いすると読み手=俳優になってしまうのです。
メソード系トレーニングの正さねばならない所はここなんです。

メソードはロシアから亡命した演劇人がスタニスラフスキーシステムの一部をメソードとして紹介したのです。日本で一番有名なActor’s Studioのリーストラズバーグ系のメソードが代表的にそれです。彼のメソードはロシアシステムから見たら、引き出しの一つなんです。メソードという一つの引き出しに固執する事は、俳優を不自由にしてしまうんです。

メソードはメソードでもステラアドラーとか我が師匠のスタンフォードマイズナーは『自分が感じてるか、感じてないか』に否定的です。私はこの二人から学ばせてもらったので、ある種ラッキーだったと言えます。
ステラは良く怒って言ってました。

『自分の生理だけで、王族が演じられる訳ないでしょ!
 王族は国や民を背負ってるのよ!
 その辺のニューヨークのストリート歩いている、俳優になりたい若者とは
 何もかも違うのよ!
 …何でもカンでも自分の生理や感情でやらないで…そんなのは安い演技よ!
 もっと勉強しなさい!』

ハイ、その通りだと思います。
襟を正して今年度の第一期ワークショップ、シェークスピアを選ばせて頂きました。

読み手=観客
読み手≠俳優

WShakespeareの才能を学ぶ事で、俳優人生は大きく変わる事でしょう。
大変な作業ですが、観客に最高の追体験をさせてあげられることを目指す俳優が増える事を切に願いつつ、トレーニングプランに私も磨きをかけようと思います。


2013年4月4日木曜日

Class on Blog 6 『作品の奴隷』


若い俳優から質問されました。

『飲み会がどうしてもあまり好きになれないんですよ。
 でも、飲ミュニケーションだと思うし、分かるんですけど
 お酒自体も好きじゃないし
 ダメですかね、飲まないと

最近の若者はお酒嫌いな人多いですね。
お酒、煙草が体に悪いという保健体育の刷り込み授業が功を奏してますね。

戦後、日本をどんどん清潔な国にして、古い体質の日本人は
どんどん生きづらくなる世の中です。

ってな事を開高健さんが言ってましたね。ドキュメントで。
賛同です。
煙草!イヤ! って政府が決めたら全員が右向け右で権力が変わってしまう。
この集団ヒステリーはナチズムになりやすい危うい国民性を象徴していますから、
各個人が各個人として責任を持てる大人な社会を目指していきたいなと改めて思います。

と、大人な前提があった上で、若手俳優への回答をしてみようと思います。

はい、Class on Blog!! 『創作現場に飲ミュニケーションは必要か?』

回答。

創作に有効なコミュニケーションは必要。
ただし、日本人は大家族主義の為、有効なコミュニケーションを超えて
ただの酩酊状態の共有による幻想コミュニケーション(仲良くなったという幻想)に
至る事が多いので、そこを注意する事。

分かりましたか?

分かりづらい?仕方ないなぁじゃぁ、詳しく説明します。

『私は過ぎたる仲間意識というヤツを好みません。』

日本人は大家族主義ですから、何かと言えばとかくツルム。
ツルムと『なあなあ』な体質が出てくる。
それは創作の敵でこそあれ味方にはならないと思っています。

だから本当の意味でクリエイターは仲間意識というヤツを好みません。

ニューヨークでよく耳にした言葉。

『俺はあいつの事は嫌いだけど、あいつの仕事は認めている』

日本でよく耳にする言葉。

『俺はあいつの事は嫌いだけど、あいつの人間性は認めてる。』

これがくせ者。

私は数々のクリエイターを見てきましたが、
一定以上のクオリティを叩き出すアーティストの殆どの人が
『単体動物系』でツルムのを好まなかったように思います。

若い俳優には体験談が一番説得力があると思うので、体験談を以下に少々たしなめます。

<<奇才 デビットリンチ監督の仕事>>

・スタッフ、俳優のピラミッド(ヒエラルキー)が明確。
 (これはハリウッド資本の現場の殆どに共通)
・17時に撮影が終わるとすぐそれぞれの家に帰る。
・俳優はとても大切に扱われる。
・ギャラは高額で、俳優個人のプライベートスペースが完全に確保されている。
・ケータリングは対スタッフに対しても俳優と同様ですごく豪華。

あまりにも空気感が素晴らしい現場だったので
その時ロケバス内で一人のスタッフに聞いた素朴な疑問。

私『皆、監督誘って飲みに行ったりしないの?』
スタッフ『え?飲みになんて行かないよ。だって仕事は仕事でプライベートは別でしょ』
私『あ、そっか』
スタッフ『日本て、監督と飲むの?』
私『そうだね皆、飲みたがる。』
スタッフ『仕事終わってんのに、疲れない?』

異論なし。と、33才位の頃の私。

勿論、仲良くはするし、たまには飲みにも行ったりします。
監督にとって一部の俳優と時間を共有する事がクリエイションの為になる事もありますから。
でも、無駄に、なぁなぁの付き合いは絶対しませんでした。
監督も俳優もスタッフも、飲み会が楽しくないから行かないのではなく、
自分のアートの首をしめる事になる未来がイメージ出来ちゃうから行かないんです。

<<妖才 美輪明宏の名言>>

美輪さんも必要以上の付き合いは絶対にしません。

『人とは腹六分で付き合いなさい』

と、美輪さんは私にいつも言っていました。
この言葉の真意をこうも説明してくれました。

『十割で付き合ったら、相手は相手のエゴがあるし、
 こちらはこちらのエゴがあるし、上手くいく訳がないでしょ。』

異論なし、というかすげぇなぁ、本当に、と毎回思わされます、この人には。

必要以上の付き合いで、十割の仲良しになってしまったら、
相手のエゴがどうしても出てきてしまい、それがクリエイションの邪魔になる。

美輪さんは、
『売れている人だから人付き合いが面倒でそうしている』のではなく、
『己のアートを守る為の必死の行動』として人を避けているのだと私は感じました。

巨匠二人の例を挙げてみました。

『若手俳優君、これで分かりましたか?』

は?偉大すぎる人だとちょっとかけ離れ過ぎてて

本当に仕方ないから身近なクリエイターを例に挙げましょう。

<<身近な監督・演出・俳優 樋口隆則(菊池隆則)の場合>>

私はあまり飲み会が好きではない人と思われています。
でも、飲む事は実は大好きです。
でも、稽古中の俳優とは極力飲みに行かないと決めています。
俳優同士で飲みに行っても、自分だけは別の店で飲む、という風に一線をおかないと
アーティストとしてクリエイションに対して自分を保てないからです。

だから、俳優としても特定の監督や演出家とは仲良くなりませんし
演出や脚本家としても特定の役者達と仲良くし過ぎない様にしてます。
最低限度の礼節と人間関係をスムースに運ぶ程度のコミュニケーションがあれば
創作には充分だと思っているからです。

必要以上にツルムと人はお互いに『甘え』を生じさせる。

俳優は『この監督なら付き合い長いから、少々のわがままは大丈夫だろう』
と知らず知らずの内に礼節を欠き、役者のつまらないエゴを持ち込んだりする。

演出家や監督も『まあまあ、こいつはこんなもんだから』と妥協したり。

これは、私に言わせれば創作活動ではなく、サークル活動です。

(新人俳優でとりあえずキャリア積まなきゃとかプロの俳優で今月生活苦しいから金の為 には営業しなきゃとかだったらまだしもですが、お金にもキャリアUPにもさほど繋がら
 ない様な創作現場((小劇場的なモノや自主映画的なモノ))に関わって、更に飲んで
 クリエイションの追求もしないってなったら、本末転倒。アートではなく、仲間作り=
 サークル活動という事になります。)

でも現場の皆が飲み会に行ったら行きたい気持ちはあるから、さみしく思う事もある。
現場によっては長年の仲間がいる時もあるし、友人だったりする事もあるしね。

でも我慢です。

我慢して『飲み会の似合わない人間』『付き合いづらい人間』
=『俺はあいつの事は嫌いだけど、あいつの仕事は認めている』
と言われる人間である事をイメージし続けています。

はい。樋口隆則の例でした。

3人の例をまとめてみましょう。

上述した監督、演出家、演者の例で共通しているのが、
皆、「クリエイションの奴隷」であるという事。
飲み会という日常の快楽を捨て、
クリエイションの成功という非日常の快楽を得ようとしているのです。

このジャンルにおいて、プロデュサーも脚本家も監督も俳優やスタッフも
一つの作品を創作する為には

『その作品のしもべとなる』
覚悟を決めるべきです。
そこにベクトルを合わせずに、未熟さからくる自分のエゴや、パワーゲームに
(日本のプロの場合、拝金主義に)傾き過ぎているからいい作品が出来ないんです。

皆さん、どうかツルム前に『作品』にベクトルを向けるという事を
もう一度考えてみましょう。
そうすればあなたの創作レベルは格段に上がりますし、あなたを取り巻く環境も少しは風通しが良くなりますよ。
そして、『飲ミュニケーションって必要ですかねぇ』なんてくだらない事に
悩む若者が、すっきりした気持ちでクリエイションに関われるような現場を
作ってあげて下さい。

『若手俳優君、分かりましたか?
 必要ないと判断したら行かない。信頼する監督に、パワーゲームではなく
 クリエイションの為に誘われている、飲めと言われてると思ったら、
 信頼の度合いによって判断する事。それ位は可能な筈。
 
 それで、反感喰らうようなら、そんなツルミは
 とっととサヨナラした方が身のためですよ。
 それは、創作という隠れミノを着た、甘えとエゴでのたうっている
 気色悪い幼虫かもしれませんから。
 幼虫が蛾になったら襲われますよ。』

あ、最後にもう一つ。

酒というのは一つの嗜好品です。
役作りには実行出来るものと出来ないものがあります。
俳優は、なるべく体験した方がいいけれど、
自分が死ぬ事や、人を傷つける事は意図的には体験出来ませんね。

だとしたら、お酒の酩酊状態を何故、過去の先人達はあんなにも楽しんでいたのか?また、必要としていたのか?を考える想像力は俳優として必要なものですよ。
自分が酒嫌いなのは、自分個人の判断ではなく、当時の学校教育の洗脳だという疑いもまずは持つ事。
それ位の洞察力と自分に対する厳しさを持って日常と自分に対峙し続けないと、多くの優れた脚本を読み込む事は出来ません。

はい。Class on Blog でした。