2013年4月7日日曜日

Class on Blog 7『自分が感じる 感じない…?』


シェークスピアとメソード


今回のワークショップから、私は積極的に国内外(リアリズム内外)の様々な戯曲をシーンスタディの題材としてクラスに持ち込もうと思っています。

その皮切りがシェクスピア大先生。
ある程度、演技を誠実に学び、実践してきた俳優ならWSHAKESPEAREという劇作家の作品に触れる事がどれだけ難易度の高いシーンスタディになるかが予測つくかと思います。

シェークスピアの卓越した人間観察眼は、ギリシャ悲劇以来16世紀もの間、宗教劇しかクリエイトしていなかった英国の演劇の遅れを一挙に先進させました。各キャラクターの内面を描いた心理描写は、最も優れた英文学…そう、文学と言われる程のものなのです。

とても大事な部分です。

何故人間は文学を読むのか?
答えは読み手の数だけあるでしょう。
挙げたらキリがありませんので、まず一つの答えに限定します。

何故人は文学を読むのか?

それは『人間が描写されている』からです。

典型的な善人であったり、典型的な悪人であったり、予想外の行動をとる悪人だったり、二面性を超えて何重もの人格を持つ善人であったり…

多くの人は、文学に出てくるキャラクターの行動を読む=生きる事で、
自分の人生においてあんな事にならないように浮気女には注意しよう、とか、
ジゴロ男に騙されて悲惨な思いをするのは結婚前までにしよう、とか、
お金ばかりの人生なんてつまらない、本当の意味で豊かに、アーティスティックに生きよう、とか、
色々と感じ、考えて参考にしたりする訳です。
要するに、ある意味では人生の参考書みたいな所があるんですね。

ぶっとんでいるJバタイユなんかの文学も、『ぶっ飛んでる』人のモデルタイプとして読む=生きる事が出来る。(自分が登場人物のように、ナルシスティックで文学的な人生を模写して生きる事も出来る)
文学を読む事で、人は現実では生きられないいくつもの人生を生きる訳です。

更に、文学好きがこうじて読み進めていくと、作り手側の視点で読み進む楽しみ方に変わっていく人が多いようです。キャラクターのモデルタイプとかよりも、時代の中でどのような影響を受けてキャラクターに事件が起こったり、何も起こらなかったりするのかを理解して読み進んで行こうとする。

更には、時代の哲学、時代の事件の解明を求めて、ニュースや新聞よりも文学から真実を学ぼうとしたり…

年を重ねるごとに、文学作品がその印象を変えるのはこのせいでしょう。読み手が良い意味で成長をしているのです。

ここで一つ。
いい俳優になるには30年かかるという理由の一つがここにあります。
人生経験が積まれたら、『罪と罰』が理解出来てしまったりするもんなんです。
ただ、ここに落とし穴があって、文字に対しての慣れは若い頃に学習していかないといきなりは読めません。だから、『罪と罰』の真意までは分からずとも若いうちから必死に分かった振りして読んでみて、少したってからまた読んだら大分印象変わって、30年経って読んだら、本当に心の底から『腑に落ちる』状態が理解できたりする。

これです。

俳優は、シェークスピアのような古典を若いうちから真意が分からずとも必死に分かった振りして演じて(生きて)みて、少したってからまた演じたら(生きたら)大分印象変わって、30年経って演じたら(生きたら)、心底『臓腑に落ちた』状態で、キャラクターの真意が理解できたりする。
そうなったら、キャラクターと俳優は一体でしょう。

良い文学作品においては、必然的に時代の影響でキャラクターの人生は変貌を遂げたり、何の変貌も遂げなかったりします。理解していく分析力、洞察力が俳優に必要な技術となります。

ここまで書いたらシェークスピアを第一回目のクールに選んだ大きな理由はもう分かってきましたね。

英国最高の文学を超え、洋の古今東西を問わず全世界において最も優れた文学と評される作品のキャラクター達。
その生き様は、現代リアリズムの基礎であり、現代を生きる俳優にとって、リアリズムのみならず、演劇の魔法(ギミック)により俳優自身を高みにあげる可能性に溢れた戯曲である。

では、ここまで壮大な作品を自分が演ずる事になったら、
何から準備をするか?

はい。ワークショップ前の準備段階としてのレクチャーです。

文学に少しだけ話しを戻します。
文学における読み手=観客という図式を浮かべてください。
文学における読み手は=演劇における観客となります。

多くの読み手は、キャラクターの人生を追体験して生きる事が喜びであったり、その後の自分の人生においてのモデルタイプとして使用したりすると書きました。
これに“読み手=観客”の図式をあてはめてみましょう。

多くの観客は、キャラクターの人生を追体験して生きる事が喜びであったり、その後の自分の人生においてのモデルタイプとして使用したりする。

理解できましたね。俳優が絶対に忘れてはならない事が
読み手=観客 の図式です。
観客がキャラクターの人生を追体験する為に、俳優という生きたキャラクターが作品と観客の間の生きた媒体として存在するのです。

文学との違いがここで出てきます。
もう分かってきました?
そうです。文学と読み手=戯曲と観客 という図式が成立しないのです。
読み手に読まれるだけの戯曲はレーゼドラマと呼ばれるものです。
レーゼドラマには俳優は不必要。
しかし、戯曲を上演するには俳優が必要です。
そして俳優は生きています。
生きた人間が、観客に追体験をさせるのです。

マジックも、科学も解明されている事が殆どと思っている観客達を全てがフェイクの演劇にのめりこませるのは俳優の力です。
俳優の特殊能力と言えます。

観客を、ぐいぐい引っ張って現実を忘れさせるような力を持った戯曲のもとで、初めて俳優のその特殊能力は発揮されるのです。
また、俳優の能力がなかったら、現代においては戯曲もその力を発揮できません。
ここが演劇の総合芸術たるゆえんの一つです。

シェークスピアで観客を引っぱり続けるのは並大抵の努力では出来ません。
リアリズムを根底に持ちつつ、時代の背景、時代の哲学、時代の文化をリサーチしていく。
頭で理解したら、その数倍の時間をかけて身体感覚におとしこんで、頭で考えなくても習慣的に時代のキャラクターとしての動きや喋りがあらわれる。
その上で、『生きるべきか…死ぬべきか…それだけが問題だ…』と呟くのです。

頭でっかちで芝居は出来ません。

更に、自分のままでシェークスピアのキャラクターを生きる事は出来ません。

ここ、とても大切で、勘違いしてはならないところです。

これに合わせて、俗に言われる『メソード』というモノに関して、私の見解、並びに私がニューヨークで見聞きした事を書いてみたいと思います。

長くなりましたが、ここまでは前説。
ここからが今日のClass on Blogです。

まずは問題提起から。

1、日本の多くのトレーナーがメソードが何故必要なのかを本当の意味で
理解していないという現状。大体のトレーナーが『本を読んで』とか、『聞きかじり』とか、『1〜2回習った程度で間違った憶え方をした人から更に習っていたり』とか…原因は様々ですが、共通しているのは、身を粉にして会得した訳ではなく、何となく現場で活躍する機会があったからそのまま講師になったけど、今更勉強しづらくて、何となく自分なりの努力しかしてません…(心の中で反省しています)というトレーナー達。
私が前回ブログに書いた『仕事は嫌いだけど、いい人』パターンの先生。

悩める先生方に一言アドバイス
『日本にはメソードなど習わなくても素晴らしい俳優さんはたくさん居ます。というか、多分、あなた方は活躍出来た以上、そうだったという事でしょう。そこに自信を持って下さい。要するにイイ演技が出来ればメソードであろうがイワシの頭だろうがOKなんです。ただ!…教える場合はちょっと勝手が違います。そこは生徒の為に過去の活躍は忘れて、真摯な学習を自らに課す事をお願い致します』

悩める先生方に私よりも偉大なトレーナー兼演出家からアドバイス
『俳優は観葉植物と一緒です。水をたくさんあげなくてはイケないモノと、あ 
げ過ぎちゃいけないモノがあります。それを見極める事は導く者の責務です(英国の大演出家ピーター・ブルック談)』

2、メソード系教師の問題点
先日、竹野内豊がニューヨークに渡ってメソードトレ―ニングを受けた。というNHKのドキュメンタリー番組を見ました。その中で彼はアニマルエクササイズというのをやらされていた(簡単に言えば動物の模写をして、その時のセンスを使ってキャラ作りをする)。でも、竹野内君、どうにもアニマルエクササイズが腑に落ちない様子。トレーナーも竹野内も最終的にはなんだか未消化なままワークショップ終了。大分、乱暴に割愛して書いたけど、ここから理解したい事が一つあります。それは…“もしそのトレーナーがいいトレーナーなら、何がしかのモノを彼に与えてあげられていた筈”という事。彼が『?????』っていうのは、結局そのトレーナーは彼にとって良いトレーナーではなかったという事です。大事なのは今の彼に必要な事だったのに、トレーナーは彼に必要な事と、彼に適する事を見抜けなかったという事。“トレーナーだって万能じゃないんだから”と慰める優しさは『なぁなぁ』につながります。トレーナーは、俳優の能力を責任もって引き上げるからトレーナーなんです。(俳優が適当な取り組みでは成立しませんよ、互いの責務を全うして初めて成立するものですから)

この問題提起内容を分析していきましょう。
各俳優に必要なエクササイズは各俳優によって違う、という事。

では、多くの俳優が闘い続ける自意識からの逸脱を例に問題解決してみましょう。

メソード系トレーニングで最も有名なのが

『リラクゼーション』

というエクササイズです。(簡単に言うと自分の体や心にフォーカスを当てて、緊張をとるというトレーニング、自己開放という名の元に俳優は『怖いよ〜』
とか、泣いたりとかしてしまう)

私の見解では只でさえ内省的な俳優という生き物をより内省的にさせてしまう代物。コレは心理学上でも既に証明されてますが、人は自分の内側にフォーカスが向かえば向かう程、自意識が強くなり、他者や状況に向かえば向かう程、自意識から離れるのです。

でも、俳優にとって有効であれば良いのですから、現場での緊張感から開放される為に有効かも考えてみましょう。
映像現場100本超えの私の経験から考えますと…現場で自己開放だ、リラックスだなんて言って、体グニャグニャにして緊張から逃れる為に『怖いよ〜』なんてやったら一発で仕事なくなりますね…最近は特に時間がない現場が多いですから…違う方法でベスト状態に持って行ける方法を皆さん探した方が懸命でしょう。

メソードというのは、俳優個人が感じているか感じていないかが、良い演技かそうでないかをはかる尺度になっています。だから前術の様に内側にフォーカスを向けるトレーニングが主要なトレーニングとなる訳ですが、結局、コレも本末転倒で俳優はそのストーリーや役を通してお客様(読み手)に何かを伝え、追体験をさせてあげるのが仕事なのに、自分が感じる事が仕事になっている、コレおかしいでしょ?
コレって、読み手=観客ではなく、読み手=俳優になってしまっているんです。自分の感じたいように勝手な解釈をしてしまう。
俳優のトレーニングの初歩段階として必要な事があるのは認めています。
でも、勘違いすると読み手=俳優になってしまうのです。
メソード系トレーニングの正さねばならない所はここなんです。

メソードはロシアから亡命した演劇人がスタニスラフスキーシステムの一部をメソードとして紹介したのです。日本で一番有名なActor’s Studioのリーストラズバーグ系のメソードが代表的にそれです。彼のメソードはロシアシステムから見たら、引き出しの一つなんです。メソードという一つの引き出しに固執する事は、俳優を不自由にしてしまうんです。

メソードはメソードでもステラアドラーとか我が師匠のスタンフォードマイズナーは『自分が感じてるか、感じてないか』に否定的です。私はこの二人から学ばせてもらったので、ある種ラッキーだったと言えます。
ステラは良く怒って言ってました。

『自分の生理だけで、王族が演じられる訳ないでしょ!
 王族は国や民を背負ってるのよ!
 その辺のニューヨークのストリート歩いている、俳優になりたい若者とは
 何もかも違うのよ!
 …何でもカンでも自分の生理や感情でやらないで…そんなのは安い演技よ!
 もっと勉強しなさい!』

ハイ、その通りだと思います。
襟を正して今年度の第一期ワークショップ、シェークスピアを選ばせて頂きました。

読み手=観客
読み手≠俳優

WShakespeareの才能を学ぶ事で、俳優人生は大きく変わる事でしょう。
大変な作業ですが、観客に最高の追体験をさせてあげられることを目指す俳優が増える事を切に願いつつ、トレーニングプランに私も磨きをかけようと思います。


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